文禄元年(一五九二年)、当時の牛久城主の由良国繁公の母君の発願により、戦で命を散らした人々の菩提を弔う為に七観音八薬師の一つとして創建された曹洞宗寺院です。
当初は、久宝山正源寺と称しておりましたが、江戸時代に入り牛久藩主山口家二代目の弘隆公の時代になると、牛久藩のお膝元だったお寺の門前は水戸街道の中央に位置する重要な中継駅として整備され、牛久宿として栄えました。それに伴い正源寺も牛久宿の安寧や街道を行きかう人々の安全を見守るお寺として弘隆公の支援を受け、現在の瑞雲山正源寺に改められております。
ご本尊の南無釈迦牟尼仏と、交通安全、厄除け祈願の南無馬頭観世音菩薩、火防の秋葉権現をお奉りし、歴代の住職方の並々ならぬ尽力や、多くの方々の篤い信仰に守られ、古くより観音様ゆかりの禅寺として守られてきました。昨今では、池波正太郎著「鬼平犯科帳。雲竜剣」の中に登場するお寺としても親しまれ、現在に至っております。
当初は、久宝山正源寺と称しておりましたが、江戸時代に入り牛久藩主山口家二代目の弘隆公の時代になると、牛久藩のお膝元だったお寺の門前は水戸街道の中央に位置する重要な中継駅として整備され、牛久宿として栄えました。それに伴い正源寺も牛久宿の安寧や街道を行きかう人々の安全を見守るお寺として弘隆公の支援を受け、現在の瑞雲山正源寺に改められております。
ご本尊の南無釈迦牟尼仏と、交通安全、厄除け祈願の南無馬頭観世音菩薩、火防の秋葉権現をお奉りし、歴代の住職方の並々ならぬ尽力や、多くの方々の篤い信仰に守られ、古くより観音様ゆかりの禅寺として守られてきました。昨今では、池波正太郎著「鬼平犯科帳。雲竜剣」の中に登場するお寺としても親しまれ、現在に至っております。