■鍋島水軍ゆかりの寺
天正4年(1576)12月、龍造寺軍に滅ぼされた山代の地に息絶えた松浦党の人々を弔ういくつかの寺があった。本光寺はその一つ。
悲惨な戦いを目にされた不鉄桂文禅師が沙弥・上座の修行をなされた寺と伝えられている。鍋島直茂公は多布施(佐賀市)の別邸を宗智寺として、不鉄桂文禅師を開山に迎えるため、前もって末寺づくりを進められた。楠久の数ヶ寺が本光寺に統合され、開創を元和2年(1616)とさだめ曹洞宗宗智寺の末寺に組入れられた。
開基は小城初代藩主鍋島元茂公。公は佐賀藩初代藩主勝茂公の二男、柳生新陰流皆伝の腕前で徳川三代将軍家光公の小姓頭として文武全般のお相手を務められるなど将軍の信頼が厚かった。
楠久津には佐賀藩と小城藩の軍港が置かれ、元茂公が公務の途上で没されたときも、この港に上陸され本光寺で通夜が営まれた。今も位牌が安置され、小城藩主との関わりが古文書に偲ばれる。
鍋島水軍の御船屋があったことから、頼山陽・丸山応斎・日根対山・吉嗣拝山・平野五岳・大内青巒の滞在も多く、寺はそれらの人を迎える迎賓館や文化会館でもあったようで彼等筆による書が多く所蔵されている。
天正4年(1576)12月、龍造寺軍に滅ぼされた山代の地に息絶えた松浦党の人々を弔ういくつかの寺があった。本光寺はその一つ。
悲惨な戦いを目にされた不鉄桂文禅師が沙弥・上座の修行をなされた寺と伝えられている。鍋島直茂公は多布施(佐賀市)の別邸を宗智寺として、不鉄桂文禅師を開山に迎えるため、前もって末寺づくりを進められた。楠久の数ヶ寺が本光寺に統合され、開創を元和2年(1616)とさだめ曹洞宗宗智寺の末寺に組入れられた。
開基は小城初代藩主鍋島元茂公。公は佐賀藩初代藩主勝茂公の二男、柳生新陰流皆伝の腕前で徳川三代将軍家光公の小姓頭として文武全般のお相手を務められるなど将軍の信頼が厚かった。
楠久津には佐賀藩と小城藩の軍港が置かれ、元茂公が公務の途上で没されたときも、この港に上陸され本光寺で通夜が営まれた。今も位牌が安置され、小城藩主との関わりが古文書に偲ばれる。
鍋島水軍の御船屋があったことから、頼山陽・丸山応斎・日根対山・吉嗣拝山・平野五岳・大内青巒の滞在も多く、寺はそれらの人を迎える迎賓館や文化会館でもあったようで彼等筆による書が多く所蔵されている。