よりともさまのお寺
  • 梅花講

 潮生山 海藏庵

〒986-0113 宮城県石巻市尾崎字宮下152

沿革・年間行事

歴史や由緒

海藏庵(かいぞうあん)は石巻市尾崎(おのさき)にある開創約七百年になるお寺です。

元々は現在地より数百メートル南側の久須師神社のあたりに草庵があり古くから僧侶が住んでいたそうです。

海藏庵に残る板碑から延元元年~貞和四年(1335~1345)の間に天台宗のお寺「海藏□」(□は寺・院・庵のいずれか)として建立されたと考えられておりその後臨済宗さらに曹洞宗のお寺として現在に至っております。

同時期に開山されたお寺は奥州における曹洞宗の本山として岩手県奥州市の正法寺が貞和四年(1348)に石巻市の天台宗日輪寺(現曹洞宗多福院)が貞和年代に同じく石巻市の時宗専称寺と旧河北町東福田のお寺(寺院名不明現曹洞宗長泉院か)がそれよりやや遅れて建立され石巻市の曹洞宗梅渓寺が貞治二年(1363)である。

開山は「洞叟仙公大和尚」(勧請開山は建長寺の大通禅師)で延文五年(1360年)三月中旬に住寺したとされている。「義有大禅定門」の支援で創建されたものといわれる。

宝暦年間に火災に見舞われたため縁起・寺暦・過去帳等は消失して不明であるが臨済宗寺院としての本尊「聖観世音菩薩」は鎌倉建長寺開山の「大學禅師」(大覺禅師・蘭渓道隆)が開眼したといわれている。

元亀3年(1572)正月に雄勝町の雪峰山天雄寺六世「大桂春応大和尚」により曹洞宗に改宗。現庵主は曹洞宗寺院として十九世目である。

ご本尊

聖観世音菩薩

文化財文化財

■宮城県有形文化財「海藏庵板碑群」

長面浦(ながつらうら)に臨む標高17~25mの南急斜面に鎌倉時代後半(弘安10年・1287)から室町時代前半(文安4年・1447)までの100基以上の板碑群が当時の状況を残したまま発見されています。 板碑は傾いてはいるものの元の位置に留まっており斜面を削り出した段に数基~数十基がまとめて並べられています。

中世の頃「遠島」(としま)に属していた尾崎地区は軍事・交通の要衝でありました。尾崎は伊達氏はもちろんそれ以前の葛西氏よりもさらに前から武士団や水軍の館(たて・やかた)が数ヶ所あったと言われておりこれらの板碑群はそのような一族が追善供養を目的に建立したものと考えられております。

平成十年の発掘調査では板碑の他十二世紀後半頃の和鏡(水辺秋草双雀鏡)中世の陶器甕・扁平な円礫(供養のために円礫を供える習慣がこの地域にあったとされる)や小刀それに少量の火葬骨(黒塗りの漆小箱に入ったものもあった)寛永通寶・近世の志野焼の破片などが出土しました。

現在板碑は寺の入口と本堂後ろの二ヶ所にまとめて移転しています。

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