当寺は、曹洞宗観嶺山高福寺と号し、
大同年間坂上田村麻呂の創建との言い伝えがあるが、
開山した僧侶の資料はなく、
当初は天台宗寺院であったと云われている。
荒廃していた当寺をその後、天文15年(1546)に、
澗洞院(東松島市)の第5世陽山慶誉大和尚が中興開山し、
曹洞宗に改宗された。
(『封内風土記』封内風土記』(ほうないふどき)は、
日本の江戸時代に仙台藩が編纂した地誌である。1772年)。
現在の本堂は旧本堂老朽化の為に昭和60年、
先住である二十四世亮雄大和尚並びに
当時の高福寺建築委員会により移転、新築に至り、
旧本堂の跡地は【奥の院】と表し報恩祈念とし
慈母観音像が奉られた。
また、旧本堂以前の建物については、
山火事により堂塔宝物の一切は2回焼失している。
山号である【観嶺山】については、
高き山の頂きを目指し仰いでいくかのように
寺門繁栄の願いを込め、授けた名であると考えられる。
本尊様は、【釈迦如来】、文殊・普賢両菩薩、
西側室中には震災により旭山の不動堂より移転された
不動明王が安置されている。
大同年間坂上田村麻呂の創建との言い伝えがあるが、
開山した僧侶の資料はなく、
当初は天台宗寺院であったと云われている。
荒廃していた当寺をその後、天文15年(1546)に、
澗洞院(東松島市)の第5世陽山慶誉大和尚が中興開山し、
曹洞宗に改宗された。
(『封内風土記』封内風土記』(ほうないふどき)は、
日本の江戸時代に仙台藩が編纂した地誌である。1772年)。
現在の本堂は旧本堂老朽化の為に昭和60年、
先住である二十四世亮雄大和尚並びに
当時の高福寺建築委員会により移転、新築に至り、
旧本堂の跡地は【奥の院】と表し報恩祈念とし
慈母観音像が奉られた。
また、旧本堂以前の建物については、
山火事により堂塔宝物の一切は2回焼失している。
山号である【観嶺山】については、
高き山の頂きを目指し仰いでいくかのように
寺門繁栄の願いを込め、授けた名であると考えられる。
本尊様は、【釈迦如来】、文殊・普賢両菩薩、
西側室中には震災により旭山の不動堂より移転された
不動明王が安置されている。