功山寺は、元応2年(1320)に虚庵玄寂禅師によって開かれ、最初は金山長福寺(臨済宗)と号した。開基は長門探題北条時仲である。
足利尊氏や、長門守護厚東氏、大内氏などの武門の厚い信仰と庇護を受ける。
弘治元年(1557)毛利元就に敗れた大内義長が当寺の仏殿で自刃、その後、寺も戦乱で荒廃した。
慶長7年(1602)に初代長府藩主毛利秀元が寺を修復し、父、元清の霊をまつり、笑山寺(曹洞宗)と改称し、毛利家の香華寺となった。
弘治元年(1557)毛利元就に敗れた大内義長が当寺の仏殿で自刃、その後、寺も戦乱で荒廃した。
慶長7年(1602)に初代長府藩主毛利秀元が寺を修復し、父、元清の霊をまつり、笑山寺(曹洞宗)と改称し、毛利家の香華寺となった。
慶安3年(1650)秀元が亡くなり、その法号「智門寺殿功山玄誉大居士」にちなみ、功山寺(曹洞宗)と改称され、今日に至っている。
幕末、京都の政変により、三条実美等七卿が都落ちし、その内の五卿が元治元年(1864)11月から翌慶應元年1月までの二か月間功山寺の書院に潜居した。
幕末、京都の政変により、三条実美等七卿が都落ちし、その内の五卿が元治元年(1864)11月から翌慶應元年1月までの二か月間功山寺の書院に潜居した。
その間、元治元年12月15日に高杉晋作が書院(七卿潜居の間)で五卿に謁見し、長州の藩論を倒幕へ導くために功山寺で挙兵した。それが明治維新への第一歩となった。