三原城西の出城として建てられた小早川隆景公の菩提寺です
  • 梅花講

東日山  法常寺

〒723-0064 広島県三原市西宮1-8-1

沿革・年間行事

歴史や由緒

  竹原小早川初代政景は、正嘉2年(1258年)広島県竹原市新庄 木村山城を居城とし、十三代興景公に至る約3百年間地頭職を務めた間、木村山城北方の山麓に位置する東日山法輪常転禅寺(天台宗)を菩提所とした。

  十三代興景公(開基:法常寺殿體巖全公大居士)は、天台宗の法輪常転禅寺を曹洞宗に改宗(天文8年(1539年))し、、広島県廿日市市 洞雲寺六世大休登懌大和 を開山に招いて寺名を法常寺とする。大休師は自分の師の天庵宗春師(洞雲寺五世)を開山(勧請開山)とし自分は二世(創業始祖)となる。

  天文13年(1544年)毛利元就公の三男(当時:徳寿丸、後:隆景)が養子として迎えられ、竹原小早川家十四代を継ぎ、さらに、天文19年(1550年)本家沼田小早川家十六代繁平公の養子として沼田小早川家十七代を継いで竹原小早川・沼田小早川の両小早川氏が統一された。

  天文21年(1552年)隆景公は城を新高山城に移し、新高山城の祈願所として法常寺を竹原市新庄より新髙山城の北側山麓船木の地に移された。

  隆景公は、永禄10年(1567年)三原城の築城を開始し、法常寺を三原城の乾の方角(西の要の位置)に移転した。山門を入り参道が枡形に曲げられている(搦め手)など、三原城の西の出城として建てられたようである。

  本郷村庄屋土生家文書によれば、引っ越しは天正20年(1592年)と記載されており、竹原小早川家十四代隆景公は、法常寺を現在地に移し再興されたので、三原に於ける開基とされる方である。(再開基:黄梅院殿三品泰雲紹閑大居士)

  当寺では、興景公・隆景公を両開基としてお祀りしている。

  小早川隆景公は慶長2年(1597年)三原城にて死去され、法常寺にて葬儀を行い、境内で荼毘(火葬)に付された。遺骨は沼田小早川家の墓地(沼田東町納所の米山寺東側)に葬られた。

  境内には、小早川隆景公の遺体を安置した棺台の石、火葬跡には小祠が残されている。

ご本尊

天台宗時代の本尊と言われており、「備後国三原廻」(1781~1789)によれば定朝作と記述されている。

華厳釈迦如来(坐像)
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