当山は、1602年、兵庫県美嚢郡久留美字清土(現在の三木市)
に建立されました。
明治2年の廃仏毀釈や興廃により、その伽藍の一部とともに本寺
慈眼寺に併合され、爾来32年、このことを痛く慨された
圓通祖道老師は、明治35年、神戸市小野(現在の中央区)に移し、
再興を決意。明治41年現在の地を求め、仮の本堂を建立。
大正元年には、当時の名棟梁、9代目伊藤平左衛門・人間国宝彫長を
招き、伽藍建立を始め、大正13年、長野善光寺雨宮智栄尼僧正を
拝請、大落慶式典を挙行するに到りました。
初代圓通祖道老師は、本尊に一光三尊の善光寺如来を勧請し、
宗派を超えた布教活動を展開し、遠近を問わず「小野の善光寺」と
呼ばれております。
その後の阪神大水害・空襲の難を奇跡的に逃れ、又、平成7年の
阪神大震災では、伽藍は大きな被害を受けましたが、伊藤平左衛門の
孫弟子、魚津棟梁の献身的な修復によって、創建当時の伽藍が復旧
相成りました。
東福寺住職 圓通 良樹 合掌
に建立されました。
明治2年の廃仏毀釈や興廃により、その伽藍の一部とともに本寺
慈眼寺に併合され、爾来32年、このことを痛く慨された
圓通祖道老師は、明治35年、神戸市小野(現在の中央区)に移し、
再興を決意。明治41年現在の地を求め、仮の本堂を建立。
大正元年には、当時の名棟梁、9代目伊藤平左衛門・人間国宝彫長を
招き、伽藍建立を始め、大正13年、長野善光寺雨宮智栄尼僧正を
拝請、大落慶式典を挙行するに到りました。
初代圓通祖道老師は、本尊に一光三尊の善光寺如来を勧請し、
宗派を超えた布教活動を展開し、遠近を問わず「小野の善光寺」と
呼ばれております。
その後の阪神大水害・空襲の難を奇跡的に逃れ、又、平成7年の
阪神大震災では、伽藍は大きな被害を受けましたが、伊藤平左衛門の
孫弟子、魚津棟梁の献身的な修復によって、創建当時の伽藍が復旧
相成りました。
東福寺住職 圓通 良樹 合掌