安産祈祷相撲のお寺です

 瑞龍山 陽珠院

〒515-0348 三重県多気郡明和町大字中村1023

沿革・年間行事

歴史や由緒

当寺の開基は北堂左京太夫と伝えられる。その後多気国司北畠中納言(とも)(のり)の臣中村左近尉が北堂氏の遺跡である中藤原に城塞を築き当寺をその菩提寺と定め、その家臣達もここに葬られたから寺勢も盛んであった。北畠氏の滅亡に伴い中村氏も衰え、豊臣氏の頃には滅んだから寺の勢いも振わなくなり、わずかに草庵程度のものがあったに過ぎなかった。その後水崖存吸和尚が来て薗田氏等と力をあわせ寺を建て、その師名張徳蓮院二世直道伝龍を招請して開山とした。雄山碩峯の時再建したが、その後荒れがひどくなったので五世法厳智門はこの地の豪家薗田、牧戸等の助力を得て享保17年(1732)4月現在の諸堂を建て大いに寺勢を盛んにした。なお「瑞龍山陽珠禅院重宝諸堂重興記」には当寺の沿革が詳記されているから、その要を次に抄出する。

当山開基北堂左京太夫…中古中村左近尉は昔時多気国司北畠中納言之幕下にして世々北堂遺跡中村邑に一城を構え得て近在すべて采邑(さいゆう)之地となる。其主臣悉く皆当山を以て常菩提院となし宗風最も行わる。然れども元享の兵乱以来四海平清ならず、足利家やや衰廃し信長終に数国之権を採る。吾が国司之一属敗軍…多気本城力無く…次に太閤萬国之乱を静めんと欲し…中村氏の類属…終いに亡滅也。因つて、居城之陣跡…民家と化し…俗諺(ぞくげん)を以て北堂城の内という…故に当山の法燈…衰え唯草廬を結ぶ…八九十年前水崖存吸和尚住釆…薗田氏と檀越等と力を(あわ)せて一宇をなす…千糸不渓和尚…年久して寂す…後事に伊州徳蓮二世直通伝龍和尚を請じ始めて開法開山之牌面を立て法系以て霊峯自然和尚に嗣続して当山通幻派下の正流に帰す…雄山碩峯和尚幸任し…殿裡底之造営全からず、故に薗田氏因り吉数両の金を喜捨し造営の美を尽さしむ…後玖峯能珊和尚…発源唯心和和尚を董す…(唯心和尚の財)四十両に及び即ち以て田畠に易へなし‥・(法巌智門の時)当山境内低湿の地にして…薗田、牧戸の二氏…大工斎木氏…に命じ…享保16辛亥(かのとい)3月15日始め…明年子の3月15日上棟す…同年7月24日落成…

享保17(1731)壬子年4月仏生日

前総持当院重興五世法巌門受記

享保17年に建てられた本堂

ご本尊

陽珠院のご本尊様は、延命子安地蔵様です。江戸享保年間の作で木造立像です。平成の本堂新築に合わせしゅうふくを行いました。修復の際、本体の中より、おそらく、寄進者であろう名前と年月日の書いた紙が出てまいりました。この時より、檀信徒の皆様や地域の皆様に大事にされ、また、お守りを頂いております。

年間行事

■お正月

お正月には、地域の方が集まり昨年一年の無事に感謝し、新しい一年を迎え仏さまとご先祖様にご挨拶をいたします。そのあと、集まった方で、楽しき時間を過ごします。

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