当寺の開創は、明応年中(一四九二 ~ 一五〇一)に僧裕徳(ゆうとく)が白川字庵の地に小庵を設け、坐禅修行に励み、太白星の出るを見て悟りを開き、それにちなんで太白山と号したのが始まりと伝えられています。寛文年間(一六六一 ~ 七三)、僧春堯(しゅんぎょう)が現在地に移転しました。
その後、境内地を整備し、享保七年(一七二二)、僧祐和尚のとき、雲興寺二十二世梨翁耕田(りおうこうでん)和尚を招いて開山とし、法地の格を備えました。ご本尊は聖観世音菩薩で、子授け安産に霊験ありと伝えられています。出産を無事に終えた女性が、腹帯を本堂の柱に巻きつけて奉納していました。両側が漆喰塀の石段参道は、十世中興湛然霊泉和尚の代(嘉永二年)に整備されたものです。嘉永年間(一八四八❘五四)には小原村広円寺より本堂を移築し、境内には庫裡など七棟の伽藍が建ち並んでいました。しかし、昭和十五年五月の釈尊降誕会花祭りの折、残り火不始末によりそのほとんどを焼失しました。この時、ご本尊様と過去帳を持ち出すのがやっとだったそうです。昭和三十年にようやく本堂を再建するも、昭和四十七年七月の豪雨水害により本堂が倒壊しました。現在の本堂は昭和四九年に再建されたものです。
なお当寺の石仏には、享保三年銘の馬頭観音供養塔や、宝暦五年(一七五五)・明和四年(一七六七)銘の観世音菩薩像があります。また、明治六年には藤岡では最初の学校として白川郷学校が寺の境内地に創立され、明治四三年に石畳へ移転するまで、学童の学び舎でもありました。
その後、境内地を整備し、享保七年(一七二二)、僧祐和尚のとき、雲興寺二十二世梨翁耕田(りおうこうでん)和尚を招いて開山とし、法地の格を備えました。ご本尊は聖観世音菩薩で、子授け安産に霊験ありと伝えられています。出産を無事に終えた女性が、腹帯を本堂の柱に巻きつけて奉納していました。両側が漆喰塀の石段参道は、十世中興湛然霊泉和尚の代(嘉永二年)に整備されたものです。嘉永年間(一八四八❘五四)には小原村広円寺より本堂を移築し、境内には庫裡など七棟の伽藍が建ち並んでいました。しかし、昭和十五年五月の釈尊降誕会花祭りの折、残り火不始末によりそのほとんどを焼失しました。この時、ご本尊様と過去帳を持ち出すのがやっとだったそうです。昭和三十年にようやく本堂を再建するも、昭和四十七年七月の豪雨水害により本堂が倒壊しました。現在の本堂は昭和四九年に再建されたものです。
なお当寺の石仏には、享保三年銘の馬頭観音供養塔や、宝暦五年(一七五五)・明和四年(一七六七)銘の観世音菩薩像があります。また、明治六年には藤岡では最初の学校として白川郷学校が寺の境内地に創立され、明治四三年に石畳へ移転するまで、学童の学び舎でもありました。