応仁元年(一四六七年)有度浜沖に夜々霊光を放ち、綺雲が四方にたなびいているのを見た漁師が海中に網を放ちました。
そして引き上げられたのが、丈3尺程の自然石で出来た地蔵菩薩でした。
そのお地蔵さまは大変霊験あらたかだった為、村民達は謹んでこの霊像を敬い、堂宇を建ててお祭りしたのが起源とされております。
その後、徳川家康公が駿府城へ隠居をする際、当時関三刹の中の一か寺であった千葉県市川市の総寧寺十八世勝国良尊大和尚に「 駿河の地に法燈相伝の敵地がある」と勧めました。
そして慶長十二年(一六〇七)五月、殿堂を建てて勝国良尊大和尚を御開山としてお迎えしたのが当山の始まりとされます。
以来、家康公は開山大和尚の高徳に帰依し、雪の朝、雨の夕暮れ、御前に侍して法談され、時が短い事を嘆かれ、神君は其の優れた人格を称え、崇拝の心が益々篤くなったそうです。
元和二年(一六一六)四月、家康公が逝去された時には当山に一度霊柩を安置し、住職が香華を供え送棺されたとされております。
そして引き上げられたのが、丈3尺程の自然石で出来た地蔵菩薩でした。
そのお地蔵さまは大変霊験あらたかだった為、村民達は謹んでこの霊像を敬い、堂宇を建ててお祭りしたのが起源とされております。
その後、徳川家康公が駿府城へ隠居をする際、当時関三刹の中の一か寺であった千葉県市川市の総寧寺十八世勝国良尊大和尚に「 駿河の地に法燈相伝の敵地がある」と勧めました。
そして慶長十二年(一六〇七)五月、殿堂を建てて勝国良尊大和尚を御開山としてお迎えしたのが当山の始まりとされます。
以来、家康公は開山大和尚の高徳に帰依し、雪の朝、雨の夕暮れ、御前に侍して法談され、時が短い事を嘆かれ、神君は其の優れた人格を称え、崇拝の心が益々篤くなったそうです。
元和二年(一六一六)四月、家康公が逝去された時には当山に一度霊柩を安置し、住職が香華を供え送棺されたとされております。