天狗と龍の伝説があるお寺
  • 梅花講

 祥雲山 龍泰寺

〒501-3217 岐阜県関市下有知5055-1

沿革・年間行事

歴史や由緒

 龍泰寺は応永14年(1407)第1祖無極慧徹(むごくえてつ)禅師によって開創され、第2祖月江正文大和尚、第3祖開山華叟正萼(かそうしょうがく)大和尚に受け継がれた。

 華叟和尚の法嗣である絶方祖奝、快庵妙慶、大林正通の三師が大沢寺(長野県)、大中寺(栃木県)、茂林寺(群馬県)をそれぞれ創建した。その門葉は中世から近世にかけて大きく展開し教線を拡げ、北は山形県から南は大分県までの1都2府19県に渡り、約700寺がその流れを汲んでいる。俗に絶方、快庵、大林三師の法系が華叟三派といわれる由縁である。しかし、開創当時は戦乱を逃れるため、無極、月江両和尚は龍泰寺と大泉寺(犬山市、現在は臨済宗)を往来し、命脈を保ったと伝えられる。

 開基は9代将軍足利義尚とされているが、その外護により兵火で焼失した伽藍を華叟正萼が嘉吉3年(1443)再建、その後再度兵火に遭い焼けたが、貞亭4年(1687)21世清厳貞淳和尚が山門、翌年には経蔵を建立するなど徐々に復興した。現在の庫裡、本堂は文化6年(1809)年33世独翁富山和尚、40世印宗正契和尚がそれぞれ再建した。経蔵には、復興のために全国から集められた浄財の施主名が記された一切経が輪蔵として納められている。この内さらに老朽化した伽藍は、昭和52年(1977)より平成13年(2001)までに、再建、修復をほぼ完了した。

 本堂裏山の中腹に後光厳天皇(1368~1375)の旧跡地としての石碑が建てられている。帝はこの地が霊域であり、絶景なのでたびたび臨幸したとの記録がある。帝は南北朝の戦いにより、足利尊氏に迎えられて即位した。足利義尚が開基であることからすれば事実かどうかについては可能性が全くないとは言えない。

 

ご本尊

釈迦牟尼仏

文化財文化財

■昔話「竜ヶ池」

「竜ヶ池」の伝説が昔話として語り継がれております。



竜泰寺までの参道は「八丁松原」と呼ばれ、そこを通って勅使門に入ると、赤門(山門)手前の右手に「竜ヶ池」と呼ばれる池があります。そして、この池の中央にある島の祠には、竜神が祀られています。

 昔、竜ヶ池には、一匹の竜が長い間住み着いていました。竜は、だんだん年を取ってきて、色々なことを考えたり、昔のことを思い出すようになりました。お母さん竜と一緒に暮らしていた小さい頃、そして元気だった子供の頃、青年の頃の事。

 あの頃は本当に元気一杯でした。何も怖い者はなく、自分はこの世で一番強く、偉いと思っていました。そして、お寺を守ることに精一杯力を注ぎました。台風の時や大雨の時は、水をおさめ、洪水を防ぎました。お寺にふりかかった災難や、邪悪な心を持った悪魔に対して、力の限り戦いました。

 竜は今でも、あの頃の事を思い出すと、自分は本当に強かったんだと思い、

「懐かしいなあ!あれはいったい、どのくらい前の事だったんだろう?遠い、遠い、昔になってしまった。」

と、寂しそうにつぶやいていました。

 また、竜は自分が生まれてから今までの間に、いったいどれだけの数の人間を見てきたことだろうと思いました。何百、何千、何万、本当に数えきれないほどの数の人間たちの姿を見てきました。寺で修行をしているお坊さんや、寺に熱心にお参りに来る村人もいました。でも、その人たちは、今はもう死んでおりません。その中には、村人たちから尊敬されて死んだ人、悟りを開いて安らかに死んだ人もたくさんいました。

 竜は、自分の命の長さに比べ、人間の命はいかに短く、はかないものかと思っていました。その竜も自分が死ぬときが、もうそこまで来ていることを知っています。そして今、不安で、たまらなく心細かったのです。

「おれは、何者よりも強かったのだ。恐れるものなど何もないのだ。」

と、何度も何度も自分に言い聞かせても、「もうすぐ死んでしまう」という不安は少しもなくなりません。何日も悩んだあげく、竜は、

「そうだ。おれはあの人間たちのように仏の教えを聞いてみよう。そうすれば何とかなるかもしれないな。」

と、思いました。それから、お寺を訪ね、華叟禅師に、

「私は、もう長く生きていることはないようです。死ぬことを思うと心細く、不安で仕方がありません。どうか、私にも仏の教えをお聞かせください。」

と、お願いしました。禅師は、竜の心をあわれに思い、仏の教えを授けてやりました。竜は、来る日も来る日も教えを聞きに来ました。

 やがて竜は死に、禅師は竜の骨を桐の箱に入れて、葬ってやりました。

 その晩遅く、戸をたたく者があるので、禅師が開けてやると、そこに死んだはずの竜が立っていました。そして、

「仏の道を教えていただいたおかげで安らかにあの世に行くことができました。これからは竜泰寺の守り神として生まれ変わり竜泰寺を守っていきます。ありがとうございました。」

と、お礼を言い、また竜ヶ池に返っていきました。

 竜泰寺には、今でも櫃(ふたのある大きな箱)におさめられた竜骨というものが秘蔵されています。

 そして竜は、竜王権現として、竜泰寺の守り神になっているのです。

 その後、竜ヶ池は埋め立てられて、十分の一ぐらいになってしましましたが、池を埋め立てて作られた田は、いつまでたっても米の出来が良くなかったということです。

 

■昔話「足あとてんじょう」

「天狗の足跡」の伝説が昔話として語り継がれております。



ずうっと昔、下有知の竜泰寺が始めて建てられた時のお話です。その敷地に、びっくりするような岩がどっかり座っていました。この大きな岩が邪魔になって、このままでは計画通りのお寺を建てることができません。

大勢の人が一生懸命押してみたり、太い棒でこでてみたり、網をかけて引っ張ってみたりしましたが、岩はビクとも動きません。

「困った。何ともならん。」

「人間の力じゃ動かんな。どうしたらいいんじゃ。」

と、皆が困り果ててワイワイ、ガヤガヤ言っていると、その中にいた道了というお坊さんが、

「どれどれ、ひとつ、わしがやってみるかな。」

と、言いながら岩に手をかけました。

「ウーム!」

顔を真っ赤にして力みました。すると岩が、ぐぐっと、動いたのです。

「ややっ、岩が動き出したぞ。」

「すごいな、こりゃ人間の力じゃねえぞ。」

 だんだん岩が大きく動くようになり、そのたびに大勢の人たちが大岩の下に、中ぐらいの石や、小さな石などを入れて岩の後の穴を埋めたので、とうとう岩の全部が土の上に出てきました。道了様は、

「えいっ!」

と、大きな掛け声と共に、頭よりも高く岩を持ち上げ、ずしん、ずしんと歩き出しました。歩くたびに、岩の重さで、足が土の中にめり込みます。やっとの思いで岩をどかせた道了様は、皆のところへ戻ってきて、足の裏についた土を洗い落とそうとしました。ところが、いくらこすってもこすっても、土が落ちないのです。

 村人たちは、

「土が落ちないとは、どういうこっちゃ。」

「そりゃ、あんな思い岩をかついだもんやで、土が足の裏にしみこんだんやねえか。」

「そうかもしれんな。うん、きっとそうじゃ。」

と、くちぐちに話していると、道了様が、

「いくら洗っても土が落ちないので家に帰って洗うとするかな。」

と、言って帰っていきました。

 それから数日後、ついに、竜泰寺が完成しました。村人たちは完成を祝って集まってきました。ところがどこを探しても道了様の姿が見当たりません。

「おい、道了様はどうしんさった?」

「どこへ行かしたやろ、おかしいな。」

と、皆が大騒ぎをしていると、

「ここじゃ、ここじゃ。」

と、上の方から声が聞こえてきました。びっくりして、皆が上を見ると、道了様が天井の足跡にぴったりと足をつけて、こうもりのように、ぶら下がっていました。

「これはどうしたことじゃ!」

「そこで何をしとんさるか?」

と、村人たちは驚いて道了様に呼びかけました。道了様は皆の顔を見てただ、にこにこと笑っているばかりです。そして、

「竜泰寺を大切にするんじゃぞ。」

と、言って、道了様は、天狗の姿になって天井から離れ、空に飛び立っていきました。

「そうか、天狗が道了様の姿を借りてわしらを助けてくれたんや。」

「そうだ、道了様が岩をどかせてくださったおかげでこんな立派なお寺ができたんじゃ。」

「いつもでも道了様を忘れないようにお祀りしよう。」

と、いうことになり、道了様を竜泰寺の守護神、道了権現として本堂に祀ることにしました。

 そして竜泰寺本堂の天井版には道了様が空に飛び立つときに踏ん張った時についたと言われる足跡が今でも残っています。

 

■東皐心越禅師の篆書額

東皐心越禅師(とうこうしんえつぜんじ)(1639~1695)

 中国浙江省金華府浦江県(せっこうしょうきんかふほこうけん)に生まれ、32歳(康熙9年)の時に杭州西湖の永福寺に入る。17世紀半ばの中国は、明朝が滅び清朝になる混乱期であり、中国人僧侶が多数日本へ来航している。長崎の興福寺澄一(ちんい)禅師の招きで、1677年(延宝5年)38歳の時に来航、日本に近世篆刻を伝えた。50歳の時、1688年(元禄元年)、水戸光圀に会い「涅槃図」を画き親交を深めたことは有名である。



水戸光圀と心越禅師の有名なエピソードが伝えられている。



 ある日、光圀は、心越禅師の力量を試すため水戸の茶室に招き、一服のお茶を差し上げた。心越禅師がお茶を口にしようとしたその時、かねてより準備させていた家来に鉄砲を一発「ズドーン!」と放させた。しかし、心越禅師は全く動じることなく一滴もこぼさず飲み干した。光圀が「ただいまは失礼した。」と詫びると、心越禅師は「鉄砲は武門の常じゃ、ご配慮無用。」と答えた。光圀は、安心してお茶を飲もうとした正にその時、心越禅師は「喝!」と大声で一喝した。光圀の驚きのあまり手が震えて茶碗を落としてしまった。心越禅師は「喝は禅家の常でございます。」と平然と答えた。心越禅師の力量がどれほどのものかを試してみるのであるが、逆に試された結果となってしまった。


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