龍泰寺は応永14年(1407)第1祖無極慧徹(むごくえてつ)禅師によって開創され、第2祖月江正文大和尚、第3祖開山華叟正萼(かそうしょうがく)大和尚に受け継がれた。
華叟和尚の法嗣である絶方祖奝、快庵妙慶、大林正通の三師が大沢寺(長野県)、大中寺(栃木県)、茂林寺(群馬県)をそれぞれ創建した。その門葉は中世から近世にかけて大きく展開し教線を拡げ、北は山形県から南は大分県までの1都2府19県に渡り、約700寺がその流れを汲んでいる。俗に絶方、快庵、大林三師の法系が華叟三派といわれる由縁である。しかし、開創当時は戦乱を逃れるため、無極、月江両和尚は龍泰寺と大泉寺(犬山市、現在は臨済宗)を往来し、命脈を保ったと伝えられる。
開基は9代将軍足利義尚とされているが、その外護により兵火で焼失した伽藍を華叟正萼が嘉吉3年(1443)再建、その後再度兵火に遭い焼けたが、貞亭4年(1687)21世清厳貞淳和尚が山門、翌年には経蔵を建立するなど徐々に復興した。現在の庫裡、本堂は文化6年(1809)年33世独翁富山和尚、40世印宗正契和尚がそれぞれ再建した。経蔵には、復興のために全国から集められた浄財の施主名が記された一切経が輪蔵として納められている。この内さらに老朽化した伽藍は、昭和52年(1977)より平成13年(2001)までに、再建、修復をほぼ完了した。
本堂裏山の中腹に後光厳天皇(1368~1375)の旧跡地としての石碑が建てられている。帝はこの地が霊域であり、絶景なのでたびたび臨幸したとの記録がある。帝は南北朝の戦いにより、足利尊氏に迎えられて即位した。足利義尚が開基であることからすれば事実かどうかについては可能性が全くないとは言えない。
華叟和尚の法嗣である絶方祖奝、快庵妙慶、大林正通の三師が大沢寺(長野県)、大中寺(栃木県)、茂林寺(群馬県)をそれぞれ創建した。その門葉は中世から近世にかけて大きく展開し教線を拡げ、北は山形県から南は大分県までの1都2府19県に渡り、約700寺がその流れを汲んでいる。俗に絶方、快庵、大林三師の法系が華叟三派といわれる由縁である。しかし、開創当時は戦乱を逃れるため、無極、月江両和尚は龍泰寺と大泉寺(犬山市、現在は臨済宗)を往来し、命脈を保ったと伝えられる。
開基は9代将軍足利義尚とされているが、その外護により兵火で焼失した伽藍を華叟正萼が嘉吉3年(1443)再建、その後再度兵火に遭い焼けたが、貞亭4年(1687)21世清厳貞淳和尚が山門、翌年には経蔵を建立するなど徐々に復興した。現在の庫裡、本堂は文化6年(1809)年33世独翁富山和尚、40世印宗正契和尚がそれぞれ再建した。経蔵には、復興のために全国から集められた浄財の施主名が記された一切経が輪蔵として納められている。この内さらに老朽化した伽藍は、昭和52年(1977)より平成13年(2001)までに、再建、修復をほぼ完了した。
本堂裏山の中腹に後光厳天皇(1368~1375)の旧跡地としての石碑が建てられている。帝はこの地が霊域であり、絶景なのでたびたび臨幸したとの記録がある。帝は南北朝の戦いにより、足利尊氏に迎えられて即位した。足利義尚が開基であることからすれば事実かどうかについては可能性が全くないとは言えない。