千眼寺は曹洞宗で、山号を普光山という。開基は平林城主色部長真である。
千眼寺はもとは真言宗で、色部家にとってゆかりのある寺であったが、長真の時代には衰微廃壊していた。長真はこれを憂い、その再興を門前耕雲寺(村上市)十世大冲元甫禅師に懇請した。禅師は長真の居城近くに佳地を選んで堂宇を建て、天文元年(一五三二)に千眼寺を開創した。千眼寺は色部家の菩提寺として栄え、その末寺が有明(光淨寺)、桃川(東膳寺)、南田中(福源寺)、福田(應菴寺)、荒島(東岸寺)、春木山(西法寺)、上鍛冶屋(金蔵寺)、金屋(大雄寺)と各地に次々と建てられた。
慶長三年に色部光長は上杉影勝の会津移封によって米沢金山の城に移ったことから、色部家の菩提寺としての千眼寺も随従して窪田(米沢市)に移ったが、平林に残った建物はやはり千眼寺の名を続け、現在に至っている。
昭和四二年八月の大水害で、享保四年(一七一九)に建てられた本堂は大破し、四六年に現在の堂宇が再建された。
千眼寺はもとは真言宗で、色部家にとってゆかりのある寺であったが、長真の時代には衰微廃壊していた。長真はこれを憂い、その再興を門前耕雲寺(村上市)十世大冲元甫禅師に懇請した。禅師は長真の居城近くに佳地を選んで堂宇を建て、天文元年(一五三二)に千眼寺を開創した。千眼寺は色部家の菩提寺として栄え、その末寺が有明(光淨寺)、桃川(東膳寺)、南田中(福源寺)、福田(應菴寺)、荒島(東岸寺)、春木山(西法寺)、上鍛冶屋(金蔵寺)、金屋(大雄寺)と各地に次々と建てられた。
慶長三年に色部光長は上杉影勝の会津移封によって米沢金山の城に移ったことから、色部家の菩提寺としての千眼寺も随従して窪田(米沢市)に移ったが、平林に残った建物はやはり千眼寺の名を続け、現在に至っている。
昭和四二年八月の大水害で、享保四年(一七一九)に建てられた本堂は大破し、四六年に現在の堂宇が再建された。