真如寺は、室町時代中期の足利8代将軍義政公の時代、寛正5年8月8日(1464年)創建された上総に於ける曹洞宗の古刹である。
開基は、甲斐の国(山梨県)武田一族から上総の地に侵攻した武田信長の孫、武田三河守信興(真如寺殿照堂道鑑大居士)である。
開山は、密山正厳禅師で、関3刹として有名な埼玉県入間郡越生町の龍穏寺2世月江正文禅師の高弟で、住山26年間、寺の創建と興隆に尽くされた。
真如寺は、曹洞宗の修行道場として重きをなし、北条氏、続いて徳川氏の庇護を受け、徳川幕府より禄30石を賜り、末寺49ヶ寺、孫寺を入れると200数十ヶ寺を有し、堂塔伽藍30余棟、修行僧も常に80余名、上総の高野山と称されるほど栄えたと伝えられている。
しかし、明治維新、戊辰戦役のあった明治元年(1868年)4月、徳川方の残党500人が真如寺にたてこもったため、攻めてきた官軍によって放火され堂塔伽藍全てが灰塵に帰してしまった。
後、平成3年に至って檀信徒の発願と多くの有縁の皆様の協力によって、本堂客殿等が再建され今日に至っている。
開基は、甲斐の国(山梨県)武田一族から上総の地に侵攻した武田信長の孫、武田三河守信興(真如寺殿照堂道鑑大居士)である。
開山は、密山正厳禅師で、関3刹として有名な埼玉県入間郡越生町の龍穏寺2世月江正文禅師の高弟で、住山26年間、寺の創建と興隆に尽くされた。
真如寺は、曹洞宗の修行道場として重きをなし、北条氏、続いて徳川氏の庇護を受け、徳川幕府より禄30石を賜り、末寺49ヶ寺、孫寺を入れると200数十ヶ寺を有し、堂塔伽藍30余棟、修行僧も常に80余名、上総の高野山と称されるほど栄えたと伝えられている。
しかし、明治維新、戊辰戦役のあった明治元年(1868年)4月、徳川方の残党500人が真如寺にたてこもったため、攻めてきた官軍によって放火され堂塔伽藍全てが灰塵に帰してしまった。
後、平成3年に至って檀信徒の発願と多くの有縁の皆様の協力によって、本堂客殿等が再建され今日に至っている。