戦国最強といわれた武田の騎馬軍団を、織田徳川連合軍が3000挺の鉄砲で打ち破ったというのが、有名な長篠設楽原の戦いです。
ところで、その戦いの折に徳川家康の命で長篠城にわずか500という人数で立て籠もり、15000の武田軍の猛攻に耐え抜き、味方を大勝利に導いた人物がいます。奥平信昌(おくだいらのぶまさ)です。その戦功により、信長から「信」の一字をいただき、家康の長女亀姫をめとりました。
武田氏が亡び、さらに小田原の北条氏滅亡後は、徳川家康が関東に入府。奥平信昌は家康より宮崎3万石を与えられました。この神守寺は奥平信昌と亀姫が宮崎城に移ったのちに、天正18年、信昌が開基となって建てられました。開山には、富岡市南蛇井の最興寺八世良枢正柏大和尚を勧進開山として迎えました。
さて、奥平家の家臣として長篠城の籠城戦に加わった中に、林主水(はやしもんど)という武士がいました。主水は戦いのあまりの悲惨さに仏心を発し、その戦いの後、仏門に入り、名を『心庵宗祥(しんあんそうしょう)』とします。そして戦死者の供養の日々を過ごしました。宗祥ら林家の人々も、信昌に従ってやって来ました。
心庵宗祥は、神守寺の二世となった他に、最興寺などの住職にもなりました。また、軽井沢泉洞寺開山となったり、信昌の長男家昌が宇都宮城主となると宇都宮の最興寺開山となるなど、その高徳ゆえに多くの寺の開山にかかわり、名を残しました。
ところで、その戦いの折に徳川家康の命で長篠城にわずか500という人数で立て籠もり、15000の武田軍の猛攻に耐え抜き、味方を大勝利に導いた人物がいます。奥平信昌(おくだいらのぶまさ)です。その戦功により、信長から「信」の一字をいただき、家康の長女亀姫をめとりました。
武田氏が亡び、さらに小田原の北条氏滅亡後は、徳川家康が関東に入府。奥平信昌は家康より宮崎3万石を与えられました。この神守寺は奥平信昌と亀姫が宮崎城に移ったのちに、天正18年、信昌が開基となって建てられました。開山には、富岡市南蛇井の最興寺八世良枢正柏大和尚を勧進開山として迎えました。
さて、奥平家の家臣として長篠城の籠城戦に加わった中に、林主水(はやしもんど)という武士がいました。主水は戦いのあまりの悲惨さに仏心を発し、その戦いの後、仏門に入り、名を『心庵宗祥(しんあんそうしょう)』とします。そして戦死者の供養の日々を過ごしました。宗祥ら林家の人々も、信昌に従ってやって来ました。
心庵宗祥は、神守寺の二世となった他に、最興寺などの住職にもなりました。また、軽井沢泉洞寺開山となったり、信昌の長男家昌が宇都宮城主となると宇都宮の最興寺開山となるなど、その高徳ゆえに多くの寺の開山にかかわり、名を残しました。