宇田山  神守寺

〒370-2451 群馬県富岡市宇田985

沿革・年間行事

歴史や由緒

 戦国最強といわれた武田の騎馬軍団を、織田徳川連合軍が3000挺の鉄砲で打ち破ったというのが、有名な長篠設楽原の戦いです。

 ところで、その戦いの折に徳川家康の命で長篠城にわずか500という人数で立て籠もり、15000の武田軍の猛攻に耐え抜き、味方を大勝利に導いた人物がいます。奥平信昌(おくだいらのぶまさ)です。その戦功により、信長から「信」の一字をいただき、家康の長女亀姫をめとりました。

​ 武田氏が亡び、さらに小田原の北条氏滅亡後は、徳川家康が関東に入府。奥平信昌は家康より宮崎3万石を与えられました。この神守寺は奥平信昌と亀姫が宮崎城に移ったのちに、天正18年、信昌が開基となって建てられました。開山には、富岡市南蛇井の最興寺八世良枢正柏大和尚を勧進開山として迎えました。



 さて、奥平家の家臣として長篠城の籠城戦に加わった中に、林主水(はやしもんど)という武士がいました。主水は戦いのあまりの悲惨さに仏心を発し、その戦いの後、仏門に入り、名を『心庵宗祥(しんあんそうしょう)』とします。そして戦死者の供養の日々を過ごしました。宗祥ら林家の人々も、信昌に従ってやって来ました。

 心庵宗祥は、神守寺の二世となった他に、最興寺などの住職にもなりました。また、軽井沢泉洞寺開山となったり、信昌の長男家昌が宇都宮城主となると宇都宮の最興寺開山となるなど、その高徳ゆえに多くの寺の開山にかかわり、名を残しました。

奥平信昌像(久昌院蔵:Wikipedia)

沿革

『宇田観音』について

 

神守寺山門の左手に高さ二メートルほどの石碑があります。これを東京都の大河原清さんが次のように解説してくださいました。



神守寺に安置してある十一面観世音菩薩は神力によって発掘されたものだ。その経緯を述べる。寺田組にあった御嶽講の人々によってそれは始まる。それは明治十六年の春だった。講の大先達、臼田文左衛門、脇先達大河原善治郎、中座臼田太十郎、松浦三平、四天臼田鶴松、大河原定吉、矢嶋孫市、佐藤善太郎の八名が脇先達の大河原氏宅にて今年の養蚕倍盛、五穀豊穣、家内安全を祈願、四月十二日から一週間の水行であった。神前にて日夜怠りなく一心に苦行を続けた。最後の日、祈りの中に御嶽山刀利天宮現れ、「これから告げることをよく聞け」「ここから北西へ七八町の場所を掘るべし、石仏あり」と。翌日一同その場所を探す。されど判明せず。大先達が指差し、「そこを掘って見よ」と。すると驚くなかれ、十一面観世音像が現れる。先達様たちの信心の賜と一同歓喜の声を上げる。この有難い仏様をどうするか一同講者協議の上、当山神守寺へ安置することに決める。そしてこの史実を後世に残すべく祈念碑を建立する。二十世住職、加藤徳全師に記述を願った。    大正十二年四月十八日



 この観音様の御利益にあずかろうと、額の写真にあるように、「宇田観音講」という講までできて、遠くからも多くの人が参詣に来たそうです。しかし、昭和のいつの頃からか、この観音様が行方不明になってしまっているのです。とても残念なことです。

 

 宇田観音は石仏ということですが、寺の位牌堂に、写真の銅の鋳物製の立派な十一面観音像が、厨子に入って祀られています。裏面には「越後刈羽郡大久保住 鋳工歌代吉左エ門作」とあります。この作者や製造時期等について、新潟県柏崎市の文化振興課に問い合わせをしましたが、詳細は分かりませんでした。

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