• 梅花講

正寿山 永隣寺

〒370-2462 群馬県富岡市下丹生1568-1

沿革・年間行事

歴史や由緒

御本尊    十一面観世音菩薩

御開山    甘楽町宝積寺十二世 芳谷永とん禅師 (とん=麻の下に香)

開創年    永禄7年(1564)

開 基    小幡上総介重定の二男 小幡弾正忠信氏公 信重ともいう。

由 緒

 小幡信氏公が国峰城、宮崎城の両城の城主であった時、永隣寺を建て菩提寺とし、寺領として9,750坪を寄進した。

 信氏公は、永禄12年12月6日、静岡の蒲原の戦いで戦死。徳翁永隣禅定門となり、夫人は、天正15年5月29日に逝去。算室正寿禅定尼となった。

 時代は変わり、徳川家康公が宮崎城を奥平美作守信昌公に給い、その奥方(家康の長女・亀姫)が永隣寺三世春慶和尚に帰依し当寺を祈願所としたことから、慶安2年(1649)、三代将軍家光公より朱印地23石を賜る。

 今まで安永年間(1780)に一度、天保3年(1832)、天保11年(1840)と三度大火災にあう。現在の本堂は明治30年(1897)にできたものである。

文化財文化財

■富岡市指定文化財 「木喰仏」(もくじきぶつ)

 この仏像は木喰明満(みょうまん)の作である。

 明満仙人、五行上人ともいう。享保3年(1718)に今の山梨県に生まれ、伊藤六兵衛といい14歳で江戸に出ていろいろの職業についた。

 22歳の時、真言宗の高僧の弟子となり仏門に入った。その後45歳の時茨城県の観海上人から木喰戒を受けた。木喰戒とは、火を使って調理したものや、肉、魚は食べず、木の実や草の実などを常食するという、厳しい戒律を受けることである。

 安永2年(1772)56歳の時、千体の仏像彫刻の大願をたて、北海道から佐渡、南は九州まで、37年間かけて全国を廻り、文化6年(1810)93歳で亡くなるまで仏像を刻み続けた。

 群馬県には5回巡行しており、安永2年には高崎~妙義山~貫前神社に詣っているのでその折の作か、享和2年、子持村双林寺の聖観音を刻んだ折の作と思われる。上人85歳(1802)のころの作であろうと言われている。

 木喰上人は、仏像の他に、日記帳、軸物、神社の額、歌集なども残している。

 正面はノミで丸みを帯びた仕上げ、背面は平ら、側面の縁は丸みをつけた木喰独特の一木彫りで、岩座に倚座した姿勢で両足は膝から下を露出しています。光背は木喰仏独特の円光背、背面は中心部、周囲に五字の梵字のほか多くの墨書のあとがあるが、何れも判読困難である。また頭、顔からその下にかけて雨漏りで腐蝕していて尊名は定かではない。

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