雲門寺は慶長2年(1597)、上後閑村(安中市)長源寺16世である鳳唵澗鶩和尚を開山として創建された。開基は松井田城主大道寺政繁の家臣であった武将・山城守の孫にあたる平石儀太夫である。
主要建物は、本堂を中心に、庫裏・書院や鐘楼造りの山門などがあり、境内には美しい禅様式の庭が整備されている。
本堂の須弥壇には、釈迦如来を中心とする釈迦三尊が安置され、須弥壇両脇には達磨大師像、大権修利菩薩像が安置される。
当寺は「龍峩山地蔵院雲門寺」と号した。
山号の龍峩山は城との関係が深いことに由来すると考えられる。北条時頼の回国説話として、碓氷峠を下り、碓氷川を渡った地点から見た松井田丘陵を、時頼が「龍の水に浮かぶが如し」と褒め称えて城を築かせ、その城を青龍山霞ヵ城と名付けたという伝承が今もこの地に残っている。
地蔵院については、創建当時に境内に地蔵堂があり、それは補陀寺7世の川叟存頴禅師がこの地に隠居した時のもので、雲門寺の前身とされている。また境内には戦国期から近世にかけて建てられた石地蔵が多く見られ、地蔵信仰の深い寺であったことがうかがわれる。
雲門寺は文政6年(1823)に諸堂全焼の火災に見舞われた。住職と檀信徒の努力により本堂は3年後に再建された。これが現在の本堂であるが、再建時に茅葺きであった屋根は昭和43年(1968)にトタン葺きに、平成5年には銅葺きとなった。
境内には、石地蔵など多くの石造物があり、寺の歴史を物語っている。天保13年(1842)に建立された大権現文字塔には、秋葉大権現、金毘羅大権現、三峯大権現の名が刻まれ、防火・防災の願いが込められたものと思われる。
明治5年(1872)発布された学制により、全国に小学校が開設されたが、上増田村は雲門寺が小学校の教場となり、近代教育の場として役割を担った。
平成9年には創建400年を迎え、一大事業が進められ、本堂屋根の葺き替え、書院建立、天井絵の創作、境内整備事業などを実現した。
主要建物は、本堂を中心に、庫裏・書院や鐘楼造りの山門などがあり、境内には美しい禅様式の庭が整備されている。
本堂の須弥壇には、釈迦如来を中心とする釈迦三尊が安置され、須弥壇両脇には達磨大師像、大権修利菩薩像が安置される。
当寺は「龍峩山地蔵院雲門寺」と号した。
山号の龍峩山は城との関係が深いことに由来すると考えられる。北条時頼の回国説話として、碓氷峠を下り、碓氷川を渡った地点から見た松井田丘陵を、時頼が「龍の水に浮かぶが如し」と褒め称えて城を築かせ、その城を青龍山霞ヵ城と名付けたという伝承が今もこの地に残っている。
地蔵院については、創建当時に境内に地蔵堂があり、それは補陀寺7世の川叟存頴禅師がこの地に隠居した時のもので、雲門寺の前身とされている。また境内には戦国期から近世にかけて建てられた石地蔵が多く見られ、地蔵信仰の深い寺であったことがうかがわれる。
雲門寺は文政6年(1823)に諸堂全焼の火災に見舞われた。住職と檀信徒の努力により本堂は3年後に再建された。これが現在の本堂であるが、再建時に茅葺きであった屋根は昭和43年(1968)にトタン葺きに、平成5年には銅葺きとなった。
境内には、石地蔵など多くの石造物があり、寺の歴史を物語っている。天保13年(1842)に建立された大権現文字塔には、秋葉大権現、金毘羅大権現、三峯大権現の名が刻まれ、防火・防災の願いが込められたものと思われる。
明治5年(1872)発布された学制により、全国に小学校が開設されたが、上増田村は雲門寺が小学校の教場となり、近代教育の場として役割を担った。
平成9年には創建400年を迎え、一大事業が進められ、本堂屋根の葺き替え、書院建立、天井絵の創作、境内整備事業などを実現した。